時間

 時間=命 という人がいた。

 時間とは時を刻むための定義だ。時間とは今も1秒1秒流れている。

そんな時間はかけがえの無いもので私がこう記事を書いている間も生まれては失われている。その1秒が生きているという証拠だ。世の中にはこうして私がキーボードを叩く時間でさえも惜しいと思う人もいればこの行為ができることが幸せで有意義だと思う人もいるだろう。私が将来に対して悩むことも、辛いことも、苦しいと思う瞬間も、幸せであることには変わらない。私はこの1秒が幸せだ。でもこの1秒だけでも人によってはさまざまな価値があり、私はこの1秒を無駄にしているのかもしれない。この1秒をつかうのは自分しだいでどういうものにでも変えられる。この1秒を自分にとって有意義な時間と思うか早く過ぎろという時間なのかもしれない。

 

 そ思うと時計とは残虐で恐ろしいものにも見える。ただひたすら時を刻む。人によってその一秒が一分がどうであれただ刻んでいく。時計とはそういうものだ。自分の価値を証明するものでもあり、または自分の過去を表現するためのものである。今あなたが見ているこの記事も無駄であるか有意義であるか私の文章力の問題ではなく、あなたが見る行為そのものに時間という代償を払っている。何もしなくても1秒。進んでも後ずさりしても1秒だ。毎秒進まなくてもいい。結果的に"今"数分前より進んでいたらしい。スゴロクのように、最終地点にはどんなに時間を代償にしてもたどり着く。その時間は早いほうがいいのか、遅いほうがいいのかではなく。ゴールまでに掛かった時間がスタートしたときよりも自分にとってプラスになっているかどうかで勝敗を決めるべきである。人生もそう。ゴールはどこにあるか見えないが、ひたすら進むしかない。たまには戻らされることもあるが、それはマイナスではない。プラスになる時間が増えただけだ。ゴールとは人生に置き換えると死ぬときである。ゴールはすでに決まっている。そこまでの間にどれだけプラスにできるか、どこまで成長した段階でゴールを決めれるかである。

 

 つまり人は死ぬために生きている。そう考えると人生は悲観的に思えるが、どうせ死ぬなら楽しい人生を送りたい。ゴールは決まっている。だがどこまでがゴールかわからない。ならばいつゴールにたどり着いても悔いが無い人生にしたいものだ。当たり前のことを言ったが誰もが忘れていることのように思う。私もふと忘れることがある。小学生のころからこの考えにいきついたが、社会がそれをもみ消す。この考えを心の片隅において生きて生きたい。